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奥の細道(おくのほそ道:全文掲載)松尾芭蕉 (元禄二年:1689)

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奥の細道(おくのほそ道:原文全文)松尾芭蕉 (元禄二年:1689)

松尾芭蕉の「奥の細道」(元禄二年:1689)(全文:よみがな付)を別ページに掲載しました。ページ上のメニューから見てください。掲載にあたっては、原文の旧仮名遣い・送りを尊重しています。また、読み違えの防止と、読解の補助ために、カッコ内にふりがなや固有名詞を入れてあります。段落前の文字色が違う表題と日付は、奥の細道の旅の過程を知る参考として掲載してあります。

現代語訳は敢えてしておりません。理由としては、多くの専門家の方々による解釈がありますので、その取捨選択により、誤った情報を提供することがあるからです。それよりも、素読して、自分なりの解釈により、奥の細道の世界を楽しんでいただきたいと思うからです。
ただ、奥の細道は、芭蕉の他の紀行文集と同じように、現在、私たちが読む紀行文とは違います。この短い散文と韻文(発句)による文章は、情景描写もなく、単に行程や事跡を記したような箇所もあり、読み飛ばせば、何も感じないということもあります。余白・空白だらけの文章とも言えますが、読み手の知識や感性により、その余白・空白を想像することで、イメージが無限に拡がることになります。一度素読しても分らないものも、何度か読むうちに見えてくることもあります。また、全ての文章が事実を記したものでもなく、芭蕉によるフィクションが含まれています。何が事実で、何がフィクションかは、研究者の方々の書いたものを読んで戴ければ分りますが、芭蕉が何故それを書いたのかを考えながら読むと興味深いと思います。

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個人的な感想文

ここからは、個人的な感想ですが、学校で教えられた俳諧(俳句)の解釈が、正しいとは限らないと思います。今の多く出ている解説書も同様な傾向がありますが、芭蕉の俳諧(俳句)のキーワードである「侘び」「さび」の幽玄や余韻を重視するあまり、俳諧(俳句)の「軽味」(ユーモア・ペーソス)を鑑賞することが軽んじられることがあるようです。言い替えれば、芭蕉の蕉風俳諧は、それまでの談林俳諧の言葉遊びを排除していると思い過ぎるのではないでしょうか。真面目過ぎる鑑賞姿勢ですが、時として、芭蕉は肩すかししているような俳諧(俳句)を作りました。「そんなに堅くならずに、肩の力を抜いて、面白がることも大切。」と言っているようです。奥の細道は、芭蕉の目指した俳諧(俳句)の集大成であり、門人の手本となるものですが、俳諧(俳句)の世界を狭めたものではなく、もっと自由な姿勢で、自然や歴史・人間を謳い、俳諧(俳句)の多様なパターンを網羅して、文学世界を拡げた作品です。

日光の「あらたうと青葉若葉の日の光」の句は、葵徳川家と日光の威光を比喩していることは明らかですが、同じような言葉の遊びが、他の句でもあると思っています。例えば、出羽三山の句、「凉しさやほの三か月の羽黒山」は、「細い三日月眉毛のお歯黒(婚姻している女性)」の言葉遊び、「雲の峰幾つ崩て月の山」は『崩』の字に月の山が隠れていること、「語られぬ湯殿にぬらす袂かな」は湯殿山の厳しい修験の行に密かに泣く意味と「湯殿」(浴槽)で着物の袂を濡らすこと」洒落てみたことなどです。また、有名な「荒海や佐渡によこたふ天河」は、織姫彦星の七夕の伝説を踏まえて、日本海の荒海は、佐渡に流刑された恋人・夫とを隔てる天の川のようだとも採れます。そうすると、この句は大自然の雄大さを歌っただけではないことになります。・・・まだまだありますが、こんな鑑賞は、不真面目で、深読みでしょうか?不真面目・深読みだとしても、あながち間違いとはいえません。なぜなら、奥の細道(=芭蕉の紀行文・俳諧)は、「余白・空白」を読み手に委ねた、謎だらけの世界でも稀な文学作品であるからです。

そんな風に、もう一度奥の細道を読んで、鑑賞してみてください。新たな発見があり、芭蕉がより身近に感じられるでしょう。あなただけの解釈が、本当は芭蕉が意図したものかもしれません。下に、奥の細道の全句を掲載しましたので、もう一度味わい、考えながら読んでみてください。どうですか、芭蕉が公儀隠密だなんていう、脇道の興味よりも、もっとあなたの知的好奇心はそそられませんか?

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奥の細道の全句

草(くさ)の戸(と)も住(すみ)替(かは)る代(よ)ぞひなの家(いへ)
行(ゆ)春や鳥(とり)啼(なき)魚(うを)の目(め)は泪(なみだ)
あらたうと青葉(あをば)若葉(わかば)の日(ひ)の光(ひかり)
剃捨(そりすて)て黒髮山に衣更(ころもがへ)  曾良
暫時(しばらく)は滝(たき)にこもるや夏(げ)の初(はじめ)
かさねとは八重撫子(やへなでしこ)の名成(なる)べし  曾良
夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝(をが)む首途(かどで)哉(かな)
竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)
むすぶもくやし雨なかりせば
木啄(きつゝき)も庵(いほ)はやぶらす夏木立(なつこだち)
野(の)を横(よこ)に馬(うま)引(ひ)きむけよほとゝぎす
田(た)一枚(いちまい)植(うゑ)て立(たち)去る柳(やなぎ)かな
卯(う)の花(はな)をかざしに関(せき)の晴着(はれぎ)哉(かな)  曾良
風流(ふうりう)の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた
世(よ)の人(ひと)の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗(くり)
早苗(さなへ)とる手(て)もとや昔(むかし)しのぶ摺(ずり)
笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)
笠島(かさじま)はいづこさ月のぬかり道(みち)
桜(さくら)より松(まつ)は二木(ふたき)を三月(みつき)ごし
あやめ草(ぐさ)足(あし)に結(むす)ばん草鞋(わらぢ)の緒(を)
松島(まつしま)や鶴(つる)に身(み)をかれほとゝぎす(時鳥) 曾良
夏草(なつくさ)や兵(つはもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)
卯(う)の花(はな)に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)哉(かな) 曾良
五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりだう)
蚤虱(のみしらみ)馬(うま)の尿(しと)する枕(まくら)もと
凉(すゞ)しさを我(わが)宿(やど)にしてねまる也(なり)
這出(はひいで)よかひ屋(や)が下(した)の蟾(ひき)の声(こゑ)
眉(まゆ)掃(はき)を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花(はな)
蚕飼(こがひ)する人(ひと)は古代(こだい)のすがた哉(かな) 曾良
閑(しづか)さや岩(いは)にしみ入(いる)蝉(せみ)の声(こゑ)
五月雨(さみだれ)をあつめて早(はや)し最上川(もがみがは)
有難(ありがた)や雪(ゆき)をかほらす南谷(みなみだに)
凉(すゞ)しさやほの三か月(みかづき)の羽黒山(はぐろやま)
雲(くも)の峰(みね)幾(いく)つ崩(くづれ)て月(つき)の山(やま)
語(かた)られぬ湯殿(ゆどの)にぬらす袂(たもと)かな
湯殿山(ゆどのやま)銭(ぜに)ふむ道(みち)の泪(なみだ)かな 曾良
あつみ山(やま)や吹浦(ふくうら)かけて夕(ゆふ)すゞみ
暑(あつ)き日(ひ)を海(うみ)にいれたり最上川(もがみがは)
象潟(きさがた)や雨(あめ)に西施(せいし)がねぶの花(はな)
汐越(しほこし)や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海(うみ)涼(すゞ)し
象(きさ)がたや料理(れうり)何(なに)くふ神祭(かみまつり) 曾良
浪(なみ)こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣(す) 曾良
文月(ふみづき)や六日(むいか)も常(つね)の夜(よ)には似(に)ず
荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこ(横)たふ天河(あまのがは)
一家(ひとつや)に遊女(いうぢよ)もねたり萩(はぎ)と月(つき)
わせ(早稲)の香(か)や分入(わけいる)右(みぎ)は有磯海(ありそうみ)
塚(つか)も動(うご)け我泣声(わがなくこゑ)は秋の風
秋(あき)凉(すゞ)し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)
あかあかと日(ひ)は難面(つれなく)もあき(秋)の風
しほらしき名(な)や小松(こまつ)吹(ふく)萩(はぎ)すゝき(薄)
むざんやな甲(かぶと)の下(した)のきりぎりす
石山(いしやま)の石より白し秋の風
山中(やまなか)や菊(きく)はたお(手折)らぬ湯の匂(にほひ)
行/\(ゆきゆき)てたふ(倒)れ伏(ふす)とも萩の原 曾良
今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消(け)さん笠(かさ)の露
終宵(よもすがら)秋風(あきかぜ)聞(きく)やうら(裏)の山
庭(には)掃(はき)て出(いで)ばや寺(てら)に散(ちる)柳(やなぎ)
終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越(しほごし)の松 西行

物(もの)書(かき)て扇(あふぎ)引(ひき)さく余波(なごり)哉(かな)
月清し遊行(ゆぎやう)のもてる砂の上
名月や北国日和(ほくこくびより)定(さだめ)なき
寂しさや須磨(すま)にか(勝)ちたる浜の秋
波の間や小貝(こがひ)にまじる萩の塵(ちり)
蛤(はまぐり)のふた見(み)にわかれ行(ゆく)秋ぞ

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奥の細道(おくのほそ道:原文全文)  松尾芭蕉 (元禄二年:1689)

芭蕉の奥の細道は単なる紀行文ではありません。
古の歌枕を巡る旅の体裁を借りて、人の営みや情け、邂逅と別離、無常と自然界にある普遍的なものを、芭蕉の視線を通して記してあります。言ってみれば、これは文芸的な幻想の旅です。そして、大事なことは。日本と日本人によって、連綿と受け継がれてきた精神風土、言い換えれば。心象の揺らぎを残したといえると思います。

何気なく読んでしまうと、この濃密な文学を楽しむことはできません。推敲を重ねたうえで、一文一字に込めた芭蕉の意図を知るときこそ、この知的な詩の世界を楽しむことが出来ると思います。当初は現代語訳を加えようとも思いましたが、やはり蛇足の感を否めませんでした。ですから、皆さんには、少し無理しても原文を読んでいただきたいと思います。そのほうが得るものが多いことを、一読者としてお薦めします。

松尾芭蕉の「奥の細道」(原文全文)です。掲載にあたっては、原文の旧仮名遣い・送りを尊重してます。また、読み違えの防止と、読解の補助ために、カッコ内にふりがなや固有名詞を入れてあります。段落前の文字色が違う表題と日付は、奥の細道の旅の過程を知る参考として掲載してあります。

本文

(序文)
月日(つきひ)は百代の過客(くわかく)にして、行(ゆき)かふ年(とし)もまた旅人也。舟の上に生涯(しやうがい)をうかべ馬の口とらへて老(おい)を迎ふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風(かぜ)にさそはれて漂泊(へうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(かうしやう)の破屋に蜘(くも)の古巣(ふるす)を払ひて、やゝ年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空(そら)に、白川の関越えんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神(だうそじん)のまねきにあひて取(とる)もの手につかず、もゝ引の破(やぶ)れをつゞり笠の緒付かえて、三里(さんり)に灸(きう)すゆるより、松島の月先(まづ)心にかゝりて、住(すめ)る方は人に譲り、杉風(さんぷう)が別墅(べつしよ)に移るに、

草(くさ)の戸(と)も住(すみ)替(かは)る代(よ)ぞひなの家(いへ)

面(おもて)八句(はちく)を庵(いほり)の柱に懸置(かけおく)。

(千住旅立ち:元禄二年三月二十七日)
彌生(やよひ)も末(すえ)の七日(なぬか)、明ぼのゝ空朧々(ろうろう)として、月は在明(ありあけ)にて光おさまれる物から、不二(ふじ)の峯幽(かす)かにみえて、上野(うへの)谷中(やなか)の花の梢(こずゑ)又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵(よひ)よりつどひて、舟に乗(のり)て送る。千じゆと云(いふ)所にて舟をあがれば、前途(ぜんと)三千里のおもひ胸にふさがりて、幻(まぼろし)の巷(ちまた)に離別(りべつ)の泪(なみだ)をそゝぐ。

行(ゆ)春や鳥(とり)啼(なき)魚(うを)の目(め)は泪(なみだ)

是(これ)を矢立(やたて)の初(はじめ)として、行道(ゆくみち)なをすまゝず。人々は途中(みちなか)に立ちならびて、後(うしろ)かげのみゆる迄はと、見送(みおくる)なるべし。

(草加)
ことし元禄二(ふた)とせにや、奥羽(あうう)長途(ちやうど)の行脚(あんぎや)、只(たゞ)かりそめに思ひ立ちて、呉天(ごてん)に白髪(はくはつ)の恨(うらみ)を重ぬといへ共(ども)、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若(もし)生きて帰らばと定(さだめ)なき頼(たのみ)の末(すゑ)をかけ、其(その)日漸(やうやう)早加(さうか)と云(いふ)宿(しゅく)にたどり着(つき)にけり。痩骨(そうこつ)の肩にかゝれる物先(まづ)くるしむ。只(たゞ)身すがらにと出立(いでたち)侍(はべ)を、帋子(かみこ)一衣(いちえ)は夜(よる)の防ぎ、ゆかた雨具(あまぐ)墨筆(すみふで)のたぐひ、あるはさりがたき餞(はなむけ)などしたるは、さすがに打捨(うちすて)がたくて、路次(ろし)の煩(わづらひ)となれるこそわりなけれ。

(室の八島:元禄二年三月二十九日)
室(むろ)の八島(やしま)に詣(けい)す。同行(どうぎやう)曾良(そら)が曰(いはく)、此(この)神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)の神と申(まうし)て、富士一躰(ふじいつたい)なり。無戸室(うつむろ)に入て焼(やき)給ふ誓(ちかひ)のみ中に、火々出見(ほゝでみ)のみこと生れ給ひしより、室の八島と申(まうす)。又煙を読習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂(いはれ)也。将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁記(えんぎ)の旨(むね)世につたふ事も侍(はべり)し。

(日光山の麓:元禄二年三月三十日)
三十日(みそか)、日光山の麓(ふもと)に泊る。あるじの云(いひ)」けるやう、我名を仏五左衛門(ほとけござえもん)と云(いふ)。万(よろづ)正直を旨とする故(ゆえ)に、人かくは申侍(もうしはべる)まゝ、一夜の草の枕も打解(うちとけ)て休み給へと云(いふ)。いかなる仏の濁世塵土(ぢよくせぢんど)に示現(じげん)して、かゝる桑門(さうもん)の乞食順礼(こつじきじゆんれい)ごときの人をたすけ給ふにやと、あるじのなす事に心をとゞめてみるに、唯(たゞ)無智無分別(むちむふんべつ)にして正直偏固(へんこ)の者也。剛毅木訥(がうきぼくとつ)の仁(じん)に近きたぐひ、気稟(きひん)の清質(せいひつ)、尤尊(もつともたふと)ぶべし。

(日光:元禄二年四月一日)
卯月朔日(うづきついたち)、御山(おやま)に詣拝(けいはい)す。往昔(そのかみ)此(この)御山を二荒山(ふたらさん)と書(かき)しを、空海大師開基(かいき)の時、「日光」(につかわう)と改(あらため)給ふ。千歳未来(せんざいみらい)をさとり給ふにや、今此(この)御光(みひかり)一天にかゞやきて、恩沢(おんたく)八荒(はつくわう)にあふれ、四民安堵(あんど)の栖(すみか)穏(おだやか)なり。猶(なお)、憚(はゞかり)多くて筆をさし置きぬ。

あらたうと青葉(あをば)若葉(わかば)の日(ひ)の光(ひかり)

黒髮山(くろかみやま)は、霞かゝりて雪いまだ白し。

剃捨(そりすて)て黒髮山に衣更(ころもがへ)  曾良

曾良は河合氏(かはいうじ)にして惣五郎(そうごろう)と云へり。芭蕉の下葉(しらば)に軒(のき)をならべて、予が薪水(しんすゐ)の労(らう)をたすく。このたび松しま・象潟(きさがた)の眺(ながめ)共にせんことを悦(よろこ)び、且(かつ)は羈旅(きりよ)の難(なん)をいたはらんと、旅立(たびだつ)暁(あかつき)髪を剃(そ)りて墨染(すみぞめ)にさまをかへ、惣五を改めて宗悟(そうご)とす。仍(より)て黒髪山の句有(あり)。衣更の二字、力ありてきこゆ。

(裏見の瀧:元禄二年四月二日)
二十余丁(にじふよちやう)山を登つて滝(たき)有(あり)。岩洞(がんとう)の頂(いただき)より飛流(ひりう)して百尺(はくせき)千岩(せんがん)の碧潭(へきたん)に落(おち)たり。岩窟(がんくつ)に身をひそめ入(いり)て滝の裏(うら)よりみれば、うらみの滝と申(まうし)伝え侍(はべ)る也。

暫時(しばらく)は滝(たき)にこもるや夏(げ)の初(はじめ)

(那須の黒羽:元禄二年四月二日、三日)
那須(なす)の黒ばね(黒羽)と云(いふ)所に知人(しるひと)あれば、是(これ)より野越(のごし)にかゝりて、直道(すぐみち)をゆかんとす。遥(はるか)に一村(いつそん)を見かけて行(ゆく)に、雨振(ふり)日暮(くる)る。農夫の家に一夜(いちや)をかりて、明(あく)れば又野中(のなか)を行(ゆく)。そこに野飼(のがひ)の馬あり。草刈(くさかる)をのこになげきよれば、野夫(やぶ)といへども、さすがに情(なさけ)しらぬには非(あら)ず。いかゞすべきや、されども此野(このの)は縱横(じやうわう)にわかれて、うゐひゐ敷(しき)旅人(たびびと)の道ふみたがえん。あやしう侍れば、此(この)馬のとゞまる処にて馬を返し給へと、貸し侍(はべり)ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡(あと)したひてはしる。独(ひとり)は小姫(こむすめ)にて、名を「かさね」と云(いふ)。聞(きき)なれぬ名のやさしかりければ、

かさねとは八重撫子(やへなでしこ)の名成(なる)べし  曾良

頓(やがて)人里に至れば、あたひを鞍(くら)つぼに結付(ゆひつけ)て馬を返しぬ。

(那須八幡:元禄二年四月四日)
黒羽(くろばね)の館代(くわんだい)、浄坊寺何がしの方に音信(おとづ)る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語(にちやかたり)つゞけて、其弟(そのおとふと)桃翠(たうすゐ)など云(いふ)が、朝夕勤(あさゆうつとめ)とぶらひ、自(みづか)らの家にも伴(ともな)ひて、親属(しんぞく)の方(かた)にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外(かうぐわい)に逍遥(せうえう)して、犬追物(いぬおふもの)の跡(あと)を一見(いつけん)し、那須の篠原(しのはら)をわけて玉藻(たまも)の前の古墳(ふるづか)をとふ。それより八幡宮に詣(まうづ)。与市(よいち)扇(あふぎ)の的(まと)を射(い)し時、別しては我国氏神正八(わがくにのうぢしやうはち)まんとちかひしも、此(この)神社にて侍(はべる)と聞(きけ)ば、感応(かんおう)殊(ことに)しきりに覚えらる。暮(くる)れば桃翠宅に帰る。

(修験光明寺:元禄二年四月九日)
修験(しゆげん)光明寺と云(いふ)有(あり)。そこにまねかれて、行者堂(ぎやうじやだう)を拝す。

夏山(なつやま)に足駄(あしだ)を拝(をが)む首途(かどで)哉(かな)

(雲岸寺、仏頂和尚山居跡:元禄二年四月五日)
当国雲岸寺(うんがんじ)のおくに、仏頂和尚山居跡(ぶつちやうをしやうさんきよのあと)あり。

竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)
むすぶもくやし雨なかりせば

と、松の炭(すみ)して岩に書付(かきつけ)侍(はべ)りと、いつぞや聞え給ふ。其(その)跡見んと雲岸寺に杖(つゑ)を曳(ひけ)ば、人々すゝんで共にいざなひ、若き人おほく道のほど打ちさはぎて、おぼえず彼麓(かのふもと)に到(いた)る。山はおくあるけしきにて、谷道遥(たにみちはるか)に松杉(まつすぎ)黒く苔(こけ)しただりて、卯月(うづき)の天(てん)今猶(いまなほ)寒し。十景尽(つく)る所、橋をわたつて山門に入(いる)。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後(うしろ)の山によぢのぼれば、石上(せきしよう)の小庵(せいあん)岩窟(がんくつ)にむすびかけたり。妙禅師(めうぜんじ)の死関(しくわん)、法雲法師(ほふうんほうし)の石室(せきひつ)を見るがごとし。

木啄(きつゝき)も庵(いほ)はやぶらす夏木立(なつこだち)

と、とりあへぬ一句を柱に残侍(のこしはべり)し。

(殺生石:元禄二年四月十九日)
是より殺生石(せつしやうせき)に行(ゆく)。館代(くわんだい)より馬にて送らる。此(この)口付(くちつき)のをのこ短冊(たんざく)得させよと乞(こふ)。やさしき事を望(のぞみ)侍(はべ)るものかなと、

野(の)を横(よこ)に馬(うま)引(ひ)きむけよほとゝぎす

殺生石は温泉(いでゆ)の出(いづ)る山陰(やまかげ)にあり。石の毒気(どくき)いまだほろびず、蜂(はち)蝶(てふ)のたぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す。

(遊行柳:元禄二年四月二十日)
又、清水(しみづ)ながるゝの柳は、蘆野(あしの)の里にありて、田の畔(くろ)にのこる。此(この)所の郡守(ぐんしゆ)戸部某(こほうなにがし)の、此(この)柳みせばやなど、折((おり)をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日(けふ)此(この)柳のかげにこそ立ちより侍(はべり)つれ。

田(た)一枚(いちまい)植(うゑ)て立(たち)去る柳(やなぎ)かな

(白河の関:元禄二年四月二十一日)
心許(こころもと)なき日かず重(かさな)るまゝに、白川(白河:しらかは)の関(せき)にかゝりて旅心(たびごころ)定(さだま)りぬ。いかで都へと便(たより)求(もとめ)しも段(ことわり)也。中にも此(この)関は三関(さんくわん)の一(いつ)にして、風騒(ふうさう)の人心をとどむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢(こずゑ)猶(なほ)あはれなり。卯(う)の花の白妙(しろたへ)に、茨(いばら)の花の咲きそひて、雪にもこゆる心地(ここち)ぞする。古人(こじん)冠(かんむり)を正(たゞ)し衣裳(いしやう)を改(あらため)し事など、清輔(きよすけ)の筆にとゞめ置かれしとぞ。

卯(う)の花(はな)をかざしに関(せき)の晴着(はれぎ)哉(かな)  曾良

(須賀川:元禄二年四月二十二日から二十九日)
とかくして越行(こえゆく)まゝに、あぶくま川(阿武隈川)を渡る。左に会津根(あひづね)高く、右に岩城(いはき)、相馬(さうま)、三春(みはる)の庄(しやう)、常陸(ひたち)下野(しもつけ)の地をさかひて山つらなる。かげ沼(影沼)と云(いふ)所を行(ゆく)に、けふは空曇(くもり)て物影(ものかげ)うつらず。すか川(須賀川:すかがは)の駅に等窮(とうきう)といふものを尋(たづね)て、四、五日とゞめらる。先(まづ)白河の関いかに越えつるやと問(とふ)。長途(ちやうど)のくるしみ、身心(しんじん)つかれ、且(かつ)は風景に魂(たましひ)うばはれ、懐旧(くわいきう)に腸(はらわた)を断(たち)て、はかばかしう思ひめぐらさず。

風流(ふうりう)の初(はじめ)やおくの田植(たうゑ)うた

無下(むげ)にこえんもさすがにと語れば、脇(わき)第三(だいさん)とつゞけて三巻(みまき)となしぬ。
此(この)宿の傍(かたはら)に、大きなる栗の木蔭(こかげ)をたのみて、世をいとふ僧有(あり)。橡(とち)ひろふ太山(みやま)もかくやと間(しづか)に覚えられて、物に書付(かきつけ)侍(はべ)る。其詞(そのことば)、

栗といふ文字は、西の木とかきて西方
浄土(さいほうじやうど)に便(たより)ありと、行基菩薩の一生
杖にも柱にも此(この)木を用(もちひ)給(たま)ふとかや。

世(よ)の人(ひと)の見付(みつけ)ぬ花や軒(のき)の栗(くり)

(安積山:元禄二年四月二十九日、五月一日・二日)
等窮(とうきゆう)が宅(たく)を出(いで)て五里ばかり、檜皮(ひはだ)の宿(しゆく)を離れてあさか山(安積山)有(あり)。路(みち)より近し。此(この)のあたり沼多し。かつみ刈(かる)比(ころ)もやゝ近うなれば、いづれの草を花がつみとは云(いふ)ぞと、人々に尋(たづね)侍(はべ)れども、更(さらに)知(しる)人なし。沼を尋(たづね)、人にとひ、かつみ/\と尋(たづね)ありきて、日は山の端(は)にかゝりぬ。二本松(にほんまつ)より右にきれて、黒塚(くろづか)の岩屋(いはや)一見し、福島に宿(やど)る。明くれば、しのぶもぢ摺(ずり)の石を尋(たづね)て忍ぶの里に行(ゆく)。遥(はるか)山陰(やまかげ)の小里(こざと)に、石半(なかば)土に埋(うづもれ)てあり。里の童部(わらべ)の来りて教(をしへ)ける、昔は此山(このやま)の上に侍(はべり)しを、往来(ゆきき)の人の麦草(むぎくさ)をあらして此(この)石を試(こころみ)侍(はべる)をにくみて、此(この)谷につき落せば、石の面(おもて)下(しも)ざまに伏(ふ)したりと云(いふ)。さもあるべき事にや。

早苗(さなへ)とる手(て)もとや昔(むかし)しのぶ摺(ずり)

(瀬の上宿・佐藤庄司旧跡:元禄二年五月二日)
月の輪の渡(わたし)を越(こえ)て、瀬(せ)の上と云(いふ)宿(しゆく)に出(い)づ。佐藤庄司(さとうしやうじ)が旧跡は、左の山際(やまぎは)一里半計(ばかり)に有(あり)。飯塚(いひづか)の里、鯖野(さばの)と聞(きき)て、尋/\(たづねたづね)行(ゆく)に、丸山と云(いふ)に尋(たづね)あたる。是(これ)庄司が旧館(きうくわん)也。麓(ふもと)に大手(おほて)の跡など、人の教(をし)ふるに任(まか)せて泪(なみだ)を落(おと)し、又かたはらの古寺(ふるでら)に一家(いつけ)の石碑(せきひ)を残す。中にも二人の嫁(よめ)がしるし、先(まづ)哀(あはれ)也(なり)。女なれどもかひがひしき名の世に聞(きこ)えつる物(もの)かなと袂(たもと)をぬらしぬ。堕涙(だるゐ)の石碑も遠きにあらず。寺に入(いり)て茶を乞へば、爰(ここ)に義経(よしつね)の太刀(たち)、弁慶(べんけい)が笈(おひ)をとゞめて什物(じふもつ)とす。

笈(おひ)も太刀(たち)も五月(さつき)にかざれ紙幟(かみのぼり)

五月朔日(ついたち)の事(こと)なり。

(飯塚:元禄二年五月二日・三日)
其夜(そのよ)飯塚(いひづか)にとまる。温泉(いでゆ)あれば湯(ゆ)に入(いり)て宿をかるに、土座(どざ)に莚(むしろ)を敷(しき)てあやしき貧家(ひんか)也(なり)。灯(ともしび)もなければ囲炉裏(ゐろり)の火(ほ)かげに寝所(ねどころ)をまうけて臥(ふ)す。夜に入(いり)て、雷鳴(かみなり)雨しきりに降(ふり)て、臥(ふせ)る上よりもり、蚤蚊(のみか)にせゝられて眠らず。持病(ぢびやう)さへおこりて、消入(きえいる)計(ばかり)になん。短夜(みじかよ)の空もやうやう明(あく)れば、又旅立(たびだち)ぬ。猶夜(なほよる)の余波(なごり)、心(こころ)進まず。馬かりて桑折(こをり)の駅に出(いづ)る。遥(はるか)なる行末(ゆくすえ)をかゝへて、斯(かか)る病(やまひ)覚束(おぼつか)なしといへど、羇旅辺土(きりよへんど)の行脚(あんぎや)、捨身無常(しやしんむじやう)の観念(くわんねん)、道路に死なん、是(これ)天の命(めい)なりと、気力(きりよく)聊(いささか)とり直し、路(みち)縱横(じうわう)に踏(ふん)で、伊達(だて)の大木戸(おほきど)をこす。

(笠島:元禄二年五月四日)
鐙摺(あぶみずり)、白石(しらいし)の城を過(すぎ)、笠島(かさしま)の郡(こほり)に入れば、藤中将実方(とうのちやうじやうさねかた)の塚はいづくの程(ほど)ならんと、人にとへば、是(これ)より遥(はるか)右に見ゆる山際(やまぎは)の里を蓑輪(みのわ)・笠島(かさじま)と云(いふ)。道祖神(だうそじん)の社(やしろ)、かた見の薄(すゝき)、今にありと教ふ。此比(このごろ)の五月雨(さみだれ)に道いとあしく、身つかれ侍(はべ)れば、よそながら眺(なが)めやりて過(すぐ)るに、蓑輪(みのわ)・笠島(かさじま)も五月雨の折にふれたりと、

笠島(かさじま)はいづこさ月のぬかり道(みち)

岩沼(いはぬま)に宿る。

(武隈:元禄二年五月四日)
武隈(たけくま)の松にこそ目覚(さむ)る心地はすれ。根は土際(つちぎは)より二木(ふたき)にわかれて、昔の姿うしなはずと知らる。先(まづ)能因法師(のういんほうし)思ひ出(いづ)。往昔(そのむかし)、陸奥(むつ)の守(かみ)にて下りし人、此(この)木を伐(きり)て名取川(なとりがは)の橋杭(はしぐひ)にせられたる事などあればにや、松は此(この)たび跡もなしとは詠(よみ)たり。代々(よゝ)あるは伐(きり)、あるひは植継(うゑつぎ)などせしと聞(きく)に、今将(いまはた)千歳(ちとせ)のかたちとゝのほひて、めでたき松のけしきになん侍(はべり)し。
「武隈(たけくま)の松(まつ)みせ申(まう)せ遅桜(おそざくら)」と、挙白(きよはく)と云(いふ)ものゝ餞別(せんべつ)したりければ、

桜(さくら)より松(まつ)は二木(ふたき)を三月(みつき)ごし

(仙台:元禄二年五月四日から八日)
名取川(なとりがわ)を渡(わたり)て仙台に入(いる)。あやめふく日也(なり)。旅宿を求めて四、五日逗留(とうりう)す。爰(ここ)に画工(ぐわこう)加右衛門(かゑもん)と云(いふ)ものあり。聊(いさゝか)心あるものと聞(きき)て、知る人になる。此(この)者、年比(としごろ)さだかならぬ名どころを考置(かんがへおき)侍(はべ)ればとて、一日(ひとひ)案内(あない)す。宮城野(みやぎの)の萩(はぎ)茂りあひて、秋のけしき思ひやらるゝ。玉田・横野・躑躅(つゝじ)が岡はあせび咲(さく)ころ也(なり)。日影(ひかげ)ももらぬ松の林に入(いり)て、爰(ここ)を木の下と云(いふ)とぞ。昔もかく露ふかければこそ、みさぶらひみかさとはよみたれ。薬師堂・天神の御社(みやしろ)など拝(をがみ)て、其日(そのひ)はくれぬ。猶(なほ)松島・塩竈(しほがま)の所々画(ゑ)にかきて送る。且(かつ)紺(こん)の染緒(そめを)つけたる草鞋(わらぢ)二足餞(はなむけ)す。さればこそ、風流のしれもの、爰(ここ)に至りて其(その)実(じつ)を顕(あらは)す。

あやめ草(ぐさ)足(あし)に結(むす)ばん草鞋(わらぢ)の緒(を)

(多賀城:元禄二年五月八日)
かの画図(ゑづ)に任(まか)せてたどり行(ゆけ)ば、おくの細道の山際(やまぎは)に十符(とふ)の菅(すげ)有(あり)。今も年々十符(とふ)の菅菰(すがごも)を調(ととのへ)て国守(こくしゆ)に献(けん)ずと云(いへ)り。
壺碑(つぼのいしぶみ)市川村多賀城に有(あり)。
つぼの石ぶみは、高サ六尺余(ろくしやくあまり)、横三尺計(ばかり)か。苔(こけ)を穿(うがち)て文字幽(かすか)なり。四維国界数里(しゆいこくかいのすうり)をしるす。此城(このしろ)、神亀(じんき)元年、按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所置(あぜちんじゆふしようぐんのあそんあづまひとのおくところ)也(なり)。天平宝字(てんぴようほうじ)六年、参議東海東山節度使(さんぎとうかいとうざんせつどし)、同将軍恵美朝臣(おなじくしようぐんえみのあそん)朝(あさ)かり修造(しゆざう)。而十二月朔日(ついたち) と有(あり)。聖武皇帝の御時(おんとき)に当れり。むかしよりよみ置(おけ)る歌枕(うたまくら)、多(おほ)く語伝(かたりつた)ふといへども、山崩(くづれ)川流(ながら)て道改(あらた)まり、石は埋(うづもれ)て土にかくれ、木は老(おひ)て若木(わかき)にかはれば、時移り代(よ)変じて、其跡(そのあと)たしかならぬ事のみを、爰(ここ)に至りて疑(うたがひ)なき千歳(ちとせ)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。行脚(あんぎや)の一徳(いつとく)存命(ぞんめい)の悦び、羇旅(きりよ)の労を忘れて泪(なみだ)も落つるばかり也(なり)。

(末の松山:元禄二年五月八日)
それより野田の玉川、沖の石を尋(たづ)ぬ。末(すゑ)の松山(まつやま)は、寺を造(つくり)て末松山(まつしようざん)といふ。松のあひ/\みな墓原(はかはら)にて、羽(はね)をかはし枝を連(つら)ぬる契(ちぎり)の末も、終(ついに)はかくのごときと悲しさも増(まさ)りて、塩竈(しほがま)の浦に入相(いりあひ)のかねを聞(きく)。五月雨の空聊(いささか)晴れて、夕月夜(ゆふづくよ)幽(かすか)に、籬(まがき)が島(しま)もほど近し。蜑(あま)の小舟(をぶね)こぎつれて、肴(さかな)分つ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也(あはれなり)。
其夜(そのよ)目盲(めくら)法師(ほふし)の琵琶(びは)をならして奥浄瑠璃(おくじやうるり)と云(いふ)ものをかたる。平家にもあらず舞(まひ)にもあらず、鄙(ひな)びたる調子うち上(あげ)て、枕近うかしましけれど、さすがに辺土(へんど)の遺風(ゐふう)忘れざるものから、殊勝(しゆしよう)に覚えらる。

(塩竃:元禄二年五月九日)
早朝、塩竈(しほがま)の明神に詣(まうづ)。国守(こくしゆ)再興せられて、宮柱(みやばしら)ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに、石の階(きざはし)九仭(きうじん)に重(かさな)り、朝日朱(あけ)の玉垣(たまがき)を輝かす。かゝる道の果(はて)、塵土(ぢんど)の境(さかひ)まで、神霊(しんれい)あらたにましますこそ、吾国(わがくに)の風俗なれと、いと貴(たふと)けれ。神前に古き宝燈(はうとう)有(あり)。かねの戸びらの面に、文治三年和泉(いづみの)三郎(さぶらう)奇進(きしん)と有(あり)。五百年来の俤(おもかげ)、今目の前にうかびて、そゞろに珍(めづら)し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也(なり)。佳命(かめい)今に至りて、慕はずといふ事なし。誠(まことに)人能(よく)道を勤(つと)め、義を守るべし、名もまた是(これ)にしたがふと云(いへ)り。
日既(すでに)午(ご)にちかし。舟をかりて松島にわたる。其(その)間二里余(あまり)、雄嶋(をじま)の磯(いそ)につく。

(松島:元禄二年五月九日・十日)
抑(そもそ)もことふりにたれど、松島は扶桑(ふそう)第一の好風(かうふう)にして、凡(およそ)洞庭(どうてい)西湖(せいこ)を恥(はぢ)ず。東南より海を入(いれ)て、江(え)の中(うち)三里、浙江(せつかう)の潮(うしほ)を湛(たゝ)ふ。島々の数を尽(つく)して、欹(そばだ)つものは天を指(ゆびさし)、伏すものは波に匍匐(はらばふ)。あるは二重(ふたへ)にかさなり、三重(みへ)に畳(たた)みて、左にわかれ右に連(つらな)る。負(おへ)るあり抱(いだけ)るあり、児孫(じそん)愛すがごとし。松の緑(みどり)こまやかに、枝葉(しえふ)汐風(しほかぜ)に吹(ふき)たわめて、屈曲(くつきよく)おのづから矯(た)めたるが如し。其の気色(けしき)●(アナカンムリ+「目」)然(えうぜん)として、美人の顔(かんばせ)を粧(よそほ)ふ。ちはや振(ぶる)神の昔、大山祇(おほやまずみ)のなせるわざにや。造化(ざうくわ)の天工(てんこう)、いづれの人か筆を揮(ふる)ひ詞(ことば)を尽さむ。
雄島(をじま)が磯(いそ)は地つゞきて、海に出(いで)たる島也(なり)。雲居禅師(うんこぜんじ)の別室の跡(あと)、坐禅石(ざぜんせき)など有(あり)。将(はた)、松の木陰(かげ)に世を厭(いと)ふ人も稀(まれ)々見え侍(はべ)りて、落穗(おちぼ)・松笠(まつかさ)など打烟(うちけふ)りたる草の庵(いほり)閑(しづか)に住(すみ)なし、いかなる人とは知られずながら、先(まづ)懐かしく立寄(たちよる)ほどに、月海(つきうみ)にうつりて、昼のながめ又改(あらた)む。江上(かうしやう)に帰りて宿を求(もよむ)れば、窓をひらき二階を作(つくり)て、風雲の中に旅寝(たびね)するこそ、あやしきまで妙(たへ)なる心地(こゝち)はせらるれ。

松島(まつしま)や鶴(つる)に身(み)をかれほとゝぎす(時鳥) 曾良

予は口を閉ぢて、眠(ねむ)らんとしていねられず。旧庵(きうあん)をわかるゝ時、素堂(そどう)、松島の詩あり、原安適(はらあんてき)、松が浦島(うらしま)の和歌を贈らる。袋(ふくろ)を解(とき)て、こよひの友とす。且(かつ)、杉風(さんぷう)・濁子(じよくし)が発句(ほつく)あり。
十一日、瑞岩寺(ずゐがんじ)に詣(まうづ)。当寺三十二世の昔(むかし)、真壁(まかべ)の平四郎(へいしらう)出家して、入唐(につたう)、帰朝の後(のち)開山す。其後(そののち)に、雲居禅師(うんこざんじ)の徳化(とくげ)に依(より)て、七堂甍(いらか)改(あらたま)りて、金壁(こんぺき)荘厳(しやうごん)光を輝(かがやかし)、仏土成就(ぶつどじやうじゆ)の大伽藍(だいがらん)とはなれりける。彼(かの)見仏聖(けんぶつひじり)の寺はいづくにやと慕はる。

(石巻:元禄二年五月十日・十一日)
十二日、平泉(ひらいづみ)と心ざし、あねはの松(まつ)、緒(お)だえの橋など聞伝(ききつたへ)て、人跡(じんせき)稀(まれ)に、雉兎蒭蕘(ちとすうぜう)の行きかふ道そこともわかず、終(ゆひ)に路(みち)ふみたがへて、石(いし)の巻(まき)といふ湊(みなと)に出(いづ)。こがね花咲(さく)と詠みて、奉(たてまつり)たる金花山(きんくわざん)海上に見渡し、数百の廻船(くわいせん)入江(いりえ)につどひ、人家地をあらそひて、竃(かまど)の煙立(たち)つゞけたり。思ひかけず斯(かか)る所にも来(きた)れる哉(かな)と、宿(やど)からんとすれど、更に宿かす人なし。漸(やうやう)まどしき小家に一夜(いちや)をあかして、明(あく)れば又知らぬ道まよひ(行ゆく)。袖(そで)の渡り、尾ぶちの牧(まき)、真野(まの)の萱(かや)はらなどよそ目に見て、遥(はるか)なる堤(つつみ)を行(ゆく)。心細き長沼にそうて、戸伊摩(といま)と云(いふ)所に一宿して、平泉に到(いた)る。其間(そのかん)二十余里ほどとおぼゆ。

(平泉:元禄二年五月十三日)
三代の栄耀(えいえう)一睡(いつすゐ)の中(うち)にして、大門のあとは一里こなたに有(あり)。秀衡(ひでひら)が跡(あと)は田野(でんや)に成(なり)て、金鷄山(きんけいざん)のみ形を残す。先(まづ)高館(たかだち)にのぼれば、北上川南部(なんぶ)より流るゝ大河也(なり)。衣川(ころもがは)は和泉(いづみ)が城(じやう)をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。康衡(やすひら)等(ら)が旧跡(きうせき)は、衣(ころも)が関(せき)を隔(へだて)て南部口(なんぶぐち)をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐと見えたり。偖(さて)も義臣すぐつて此城(このしろ)にこもり、功名(こうみやう)一時(いちじ)の叢(くさむら)となる。国破れて山河(さんが)あり、城春にして草青(くさあお)みたりと、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。

夏草(なつくさ)や兵(つはもの)どもが夢(ゆめ)の跡(あと)

卯(う)の花(はな)に兼房(かねふさ)みゆる白毛(しらが)哉(かな) 曾良

兼(かね)て耳驚(みみおどろか)したる二堂開帳(かいちやう)す。経堂(きやうだう)は三将の像をのこし、光堂(ひかりだう)は三代の棺(くわん)を納め、三尊(さんぞん)の仏(ほとけ)を安置す。七宝(しつぱう)散(ちり)うせて、珠(たま)の扉(とぼそ)風にやぶれ、金(こがね)の柱霜雪(さうせつ)に朽(くち)て、既(すでに)頽廃空虚(たいはいくうきよ)の叢(くさむら)と成(なる)べきを、四面新(あらた)に囲(かこみ)て甍(いらか)を覆(おほひ)て風雨を凌(しのぐ)。暫時(しばらく)千歳(ちとせ)の記念(かたみ)とはなれり。

五月雨(さみだれ)の降(ふり)のこしてや光堂(ひかりだう)

(尿前の関:元禄二年五月十七日)
南部(なんぶ)道遥(はるか)に見やりて、岩手(いはて)の里に泊る。小黒崎(をぐろさき)、みづの小島(をじま)を過(すぎ)て、鳴子(なるご)の湯(ゆ)より尿前(しとまへ)の関(せき)にかゝりて、出羽(では)の国に越(こえ)んとす。此(この)道旅人稀(まれ)なる所なれば、関守(せきもり)にあやしめられて、漸(やうやう)として関を越す。大山(おほやま)をのぼつて日既(すでに)暮(くれ)ければ、封人(ほうじん)の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留(とうりう)す。

蚤虱(のみしらみ)馬(うま)の尿(しと・バリ)する枕(まくら)もと

主(あるじ)の云(いふ)、是(これ)より出羽(では)の国に大山を隔(へだて)て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼(たのみ)て越(こゆ)べきよしを申(まうす)。さらばと云(いふ)て、人を頼(たのみ)侍(はべ)れば、究竟(くつきやう)の若者、反脇指(そりわきざし)をよこたへ、樫(かし)の杖(つゑ)を携(たづさへ)て、我々が先に立(たち)て行(ゆく)。けふこそ必(かならず)あやうき目(め)にもあふべき日なれと、辛(から)き思ひをなして後(あと)について行(ゆく)。主(あるじ)の云(いふ)にたがはず、高山(かうざん)森々(しんしん)として一鳥(いつてう)声きかず、木(こ)の下(した)闇(やみ)茂りあひて、夜(よ)る行(ゆく)がごとし、雲端(うんたん)に土(つち)ふる心地して、篠(しの)の中踏分(ふみわけ)/\、水をわたり岩に蹶(つまづき)て、肌(はだ)につめたき汗を流して、最上(もがみ)の庄(しやう)に出づ。かの案内(あない)せしをのこの云(いふ)やう、此(この)道必(かならず)不用(ふよう)の事有(あり)。恙(つつが)なう送りまゐらせて仕合(しあはせ)したりと、よろこびてわかれぬ。跡(あと)に聞(きき)てさへ胸とゞろくのみ也(なり)。

(尾花沢:元禄二年五月十七日から二十七日)
尾花沢(をばなざは)にて清風(せいふう)と云者(いふもの)を尋(たづ)ぬ。かれは富(とめ)る者なれども、志(こころざし)いやしからず。都にも折々(をり/\)かよひて、さすがに旅の情(なさけ)をも知(しり)たれば、日比(ひごろ)とゞめて、長途(ちようど)のいたはり、さま/゛\にもてなし侍(はべ)る。

凉(すゞ)しさを我(わが)宿(やど)にしてねまる也(なり)

這出(はひいで)よかひ屋(や)が下(した)の蟾(ひき)の声(こゑ)

眉(まゆ)掃(はき)を俤(おもかげ)にして紅粉(べに)の花(はな)

蚕飼(こがひ)する人(ひと)は古代(こだい)のすがた哉(かな) 曾良

(立石寺:元禄二年五月二十七日)
山形領に立石寺(りふしやくじ)と云(いふ)山寺(やまでら)あり。慈覚大師(じかくだいし)の開基(かいき)にして、殊(ことに)清閑(せいかん)の地也(なり)。一見すべきよし、人々の勧(すす)むるに依(より)て、尾花沢より取つてかへし、其間(そのかん)七里ばかり也(なり)。日いまだ暮(くれ)ず、麓(ふもと)の坊(ぼう)に宿かり置(おき)て、山上(さんじやう)の堂にのぼる。岩(いは)に巌(いはほ)を重(かさね)て山とし、松柏(しようはく)年旧(としふり)、土石(どせき)老(おひ)て苔(こけ)滑(なめらか)に、岩上(がんしやう)の院々(ゐんゐん)扉(とびら)を閉(とぢ)て、物の音聞えず。岸をめぐり、岩を這(はひ)て、仏閣(ぶつかく)を拝し、佳景(かけい)寂寞(せきばく)として心すみ行(ゆく)のみ覚(おぼ)ゆ。

閑(しづか)さや岩(いは)にしみ入(いる)蝉(せみ)の声(こゑ)

(大石田・最上川:元禄二年五月二十八日・二十九日)
最上川(もがみがは)のらんと、大石田(おほいしだ)と云(いふ)所に日和(ひより)を待(まつ)。爰(ここ)に古き俳諧(はいかい)の種こぼれて、忘れぬ花の昔をしたひ、蘆角(ろかく)一声(いつせい)の心をやはらげ、此道(このみち)にさぐり足(あし)して、新古(しんこ)ふた道にふみ迷ふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻(ひとまき)残(のこ)しぬ。この度の風流、爰(ここ)に至れり。
最上川は、みちのくより出(いで)て、山形を水上(みなかみ)とす。碁点(ごてん)・隼(はやぶさ)など云(いふ)おそろしき難所(なんじよ)有(あり)。板敷山(いたじきやま)の北を流(ながれ)て、果(はて)は酒田(さかた)の海に入(いる)。左右(さゆう)山(やま)覆(おほ)ひ、茂みの中に船を下(くだ)す。是(これ)に稲つみたるをや、いな舟といふならし。白糸(しらいと)の滝は青葉(あをば)の隙(ひま)/\に落(おち)て、仙人堂(せんにんどう)、岸(きし)に臨(のぞみ)て立(たつ)。水漲(みずみなぎ)つて舟あやふし。

五月雨(さみだれ)をあつめて早(はや)し最上川(もがみがは)

(羽黒山・月山・湯殿山:元禄二年六月三日から十日)
六月三日、羽黒山(はぐろさん)に登る。図司左吉(づしさきち)と云(いふ)者を尋(たづね)て、別当代会(べつとうだいゑ)永覚阿闍梨(ゑかくあじやり)に謁(えつ)す。南谷(みなみだに)の別院に舎(やど)して、憐愍(れんみん)の情(じやう)こまやかにあるじせらる。
四日、本坊にをゐて俳諧(はいかい)興行(こうぎやう)。

有難(ありがた)や雪(ゆき)をかほらす南谷(みなみだに)

五日、権現(ごんげん)に詣(まうづ)。当山開闢(かいびやく)能除大師(のうぢよだいし)は、いづれの代(よ)の人と云(いふ)事を知らず。延喜式(えんぎしき)に羽州里山(うしうさとやま)の神社と有(あり)。書写(しよしや)、黒の字を里山となせるにや、羽州黒山を中略して羽黒山と云(いふ)にや。出羽といへるは、鳥の毛羽(もうう)を此国(このくに)の貢(みつぎ)に献(たてまつ)ると風土記(ふどき)に侍(はべる)とやらん。月山(ぐわつさん)、湯殿(ゆどの)を合せて三山とす。当寺武江東叡(ぶかうとうえい)に属して、天台止観(てんだいしくわん)の月明かに、円頓融通(ゑんとんゆづう)の法(のり)の灯(ともしび)かゝげそひて、僧坊棟(むね)をならべ、修験行法(しゆげんぎやうほふ)を励(はげま)し、霊山霊地の験効(げんかう)、人貴(たふたと)且(かつ)恐る。繁栄長(とこしなへ)にして、めで度(たき)御山(おやま)と謂(いひ)つべし。
八日、月山にのぼる。木綿(ゆふ)しめ身に引(ひき)かけ、宝冠(ほうくわん)に頭(かしら)を包(つつみ)、強力(がうりき)と云(いふ)ものに導(みちび)かれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に氷雪(ひようせつ)を踏(ふみ)て登る事(こと)八里、更に日月行道(にちぐわつぎやうだう)の雲関(いんくわん)に入(いる)かとあやしまれ、息絶(いきたえ)身こゞえて、頂上に臻(いた)れば、日没(ぼつし)て月顕(あらは)る。笹を鋪(しき)篠(しの)を枕として、臥(ふし)て明(あか)るを待(まつ)。日出(いで)て雲(くも)消(きゆ)れば、湯殿に下(くだ)る。
谷の傍(かたわら)に鍛冶小屋(かぢごや)と云(いふ)有(あり)。此国(このくに)の鍛冶(たんや)霊水(れいすゐ)を撰(えらび)て、爰(ここ)に潔斎(けつさい)して剣(つるぎ)を打(うつ)。終(ついに)月山と銘(めい)を切(きつ)て世に賞(しやう)せらる。彼(かの)龍泉(りうせん)に剣(けん)を淬(にらぐ)とかや。干将(かんしやう)・莫耶(ばくや)のむかしをしたふ、道に堪能(かんのう)の執(しふ)あさからぬ事しられたり。岩に腰かけてしばし休らふほど、三尺ばかりなる桜の蕾(つぼみ)半ばひらけるあり。ふり積(つむ)雪の下に埋(うづもれ)て、春をわすれぬ遅桜(おそざくら)の花の心わりなし、炎天(えんてん)の梅花(ばいか)爰(ここ)にかほるがごとし。行尊僧正(ぎやうそんそうじやう)の歌の哀(あはれ)も爰(ここ)に思ひ出(いで)て、猶まさりて覚(おぼ)ゆ。惣(そうじ)て、此(この)山中(さんちう)の微細(みさい)、行者の法式(ほふしき)として他言(たごん)する事を禁ず。仍(より)て筆をとゞめて記(しる)さず。坊に帰(かへ)れば、阿闍梨(あじやり)の需(もとめ)に依(より)て、三山順礼(さんざんじゆんれい)の句々短冊(たんざく)に書(かく)。

凉(すゞ)しさやほの三か月(みかづき)の羽黒山(はぐろやま)

雲(くも)の峰(みね)幾(いく)つ崩(くづれ)て月(つき)の山(やま)

語(かた)られぬ湯殿(ゆどの)にぬらす袂(たもと)かな

湯殿山(ゆどのやま)銭(ぜに)ふむ道(みち)の泪(なみだ)かな 曾良

(鶴岡の城下・酒田:元禄二年六月十日から十五日/十八日から二十五日)
羽黒を立(たち)て、鶴が岡の城下、長山氏重行(ながやまうぢしげゆき)と云(いふ)物のふ(武士)の家にむかへられて、俳諧一巻有(あり)。左吉も共に送りぬ。川舟に乗(のり)て酒田の湊(みなと)に下る。淵庵不玉(えんあんふぎよく)と云(いふ)医師(くすし)の許(もと)を宿(やど)とす。

あつみ山(やま)や吹浦(ふくうら)かけて夕(ゆふ)すゞみ

暑(あつ)き日(ひ)を海(うみ)にいれたり最上川(もがみがは)

(象潟:元禄二年六月十五日から十八日)
江山水陸(かうざんすいりく)の風光(ふうくわう)数(かず)を尽(つく)して、今象潟(きさがた)に方寸(はうすん)を責(せむ)。酒田の湊(みなと)より東北の方(かた)、山を越(こえ)磯(いそ)を伝(つた)ひ、いさご(砂子)をふみて、其の際十里、日影(ひかげ)やゝ傾(かたぶ)く比(こと)、汐風(しほかぜ)真砂(まさご)を吹上(ひきあげ)、雨朦朧(もうろう)として鳥海(てうかい)の山かくる。闇中(あんちゆう)に莫作(もさく)して、雨も又奇(き)なりとせば、雨後の晴色(せいしよく)又頼母敷(たのもしき)と、蜑(あま)の笘屋(とまや)に膝(ひざ)を入れて、雨の晴(はるる)を待(まつ)。其朝(そのあした)、天能霽(てんよくはれ)て、朝日(あさひ)はなやかにさし出(いづ)る程(ほど)に、象潟(きさがた)に舟をうかぶ。先(まづ)能因島(のういんじま)に舟をよせて、三年幽居の跡をとぶらひ、むかふの岸に舟をあがれば、花の上漕(こ)ぐとよまれし桜の老木(おいき)、西行法師の記念(かたみ)をのこす。江上(かうしよう)に御陵(みささぎ)あり、神功后宮(じんぐうこうぐう)の御墓(みはか)と云(いふ)。寺を干満珠寺(かんまんじゆじ)と云(いふ)。此処(このところ)に行幸(ぎやうかう)ありし事いまだ聞(きか)ず。いかなる事にや。此寺(このてら)の方丈(はうぢやう)に坐(ざ)して簾(すだれ)を捲(まけ)ば、風景(ふうけい)一眼(いちがん)の中(うち)に尽(つき)て、南に鳥海、天をさゝえ、其影(そのかげ)うつりて江(え)にあり。西はむや/\の関、路(みち)をかぎり、東に堤(つゝみ)を築(きづき)て、秋田にかよふ道遥(はるか)に、海(うみ)北にかまえて、浪打入(なみうちい)るゝ所を汐(しほ)こしと云(いふ)。江の縱横(じうわう)一里ばかり、俤(おもかげ)松島にかよひて、又異(こと)なり。松島は笑ふがごとく、象潟はうらむがごとし。寂しさに悲しみをくはへて、地勢(ちせい)魂(たましひ)をなやますに似たり。

象潟(きさがた)や雨(あめ)に西施(せいし)がねぶの花(はな)

汐越(しほこし)や鶴脛(つるはぎ)ぬれて海(うみ)涼(すゞ)し

祭礼
象潟(きさがた)や料理(れうり)何(なに)くふ神祭(かみまつり) 曾良

蜑(あま)の家(や)や戸板(といた)を敷(しき)て夕涼(ゆふすゞみ) みの(美濃)の国の商人 低耳(ていじ)

岩上に雎鳩(みさご)の巣(す)を見る
浪(なみ)こえぬ契(ちぎり)ありてやみさごの巣(す) 曾良

(北陸道:元禄二年六月二十五日から七月十二日)
酒田の余波(なごり)日をか重(かさね)て、北陸道(ほくろくだう)の雲に望(のぞむ)。遥々(えうえう)のおもひ胸(むね)をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞(きく)。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中の国一ぶり(市振:いちぶり)の関(せき)に到(いた)る。此間(このかん)九日、暑湿(しよしつ)の労(らう)に神(しん)をなやまし、病(やまひ)おこりて事をしるさず。

文月(ふみづき)や六日(むいか)も常(つね)の夜(よ)には似(に)ず

荒海(あらうみ)や佐渡(さど)によこ(横)たふ天河(あまのがは)

(市振宿:元禄二年七月十二日)
今日(けふ)は親(おや)し(知)らず子し(知)らず・犬もどり・駒返(こまがへ)詩など云(いふ)北国(ほつこく)一の難所(なんじよ)を超(こえ)て、つか(疲)れ侍(はべ)れば、枕(まくら)引(ひき)よせて寝たるに、一間(ひとま)隔(へだ)て面(おもて)の方(かた)に、若き女の声二人計(ばかり)と聞(きこ)ゆ。年(とし)老(おひ)たるをのこ(男)の声も交(まじり)て物語(ものがたり)するを聞けば、越後の国新潟(にひがた)と云(いふ)所の遊女(いうぢよ)成(なり)し。伊勢参宮するとて、此(この)関までをのこ(男)の送りて、あすは古郷(ふるさと)にかへす文(ふみ)したゝめて、はかなき言伝(ことづて)などしやる也(なり)。白波(しらなみ)のよする汀(なぎさ)に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下(くだ)りて、定めなき契(ちぎり)、日々の業因(ごふいん)、いかにつたなしと、物云(いふ)をきくきく寝入(ねいり)て、あした旅立(たびたつ)に、我々にむかひて、「行衛(行方:ゆくえ)知らぬ旅路(たびぢ)のうさ、あまり覚束(おぼつか)なう悲しく侍(はべ)れば、見えがくれにも御跡(おんあと)をしたひ侍(はべら)ん。衣(ころも)の上(うへ)の御情(おんなさけ)に大慈(だいじ)のめぐみをたれて結縁(けちえん)せさせ給(たま)へ」と泪(なみだ)を落(おと)す。不便(ふびん)の事には侍(はべ)れども、「我々は所々(しよ/\)にてとゞまる方(かた)おほ(多)し、只(ただ)人の行(ゆく)に任(まか)せて行(ゆく)べし。神明(しんめい)の加護(かご)、かならず恙(つゝが)なかるべし」と、云(いひ)捨(すて)て出(いで)つゝ、哀(あはれ)さしばらくやまざりけらし。

一家(ひとつや)に遊女(いうぢよ)もねたり萩(はぎ)と月(つき)

曾良にかたれば、書きとゞめ侍(はべ)る。

(那古の浦:元禄二年七月十三日から十四日)
くろべ(黒部)四十八か瀬(せ)とかや、数しらぬ川をわたりて、那古(なご)と云(いふ)浦に出(いづ)。担籠(たこ)の藤浪(ふぢなみ)は、春ならずとも、初秋(はつあき)の哀(あはれ)とふべきものをと、人に尋(たづぬ)れば、「是(これ)より五里、磯伝(いそづた)ひして、むかふの山陰にい(入)り、蜑(あま)の苫(とま)ぶきかすかなれば、蘆(あし)の一夜(ひとよ)の宿かすものあるまじ」といひおどされて、かが(加賀)の国に入(いる)。

わせ(早稲)の香(か)や分入(わけいる)右(みぎ)は有磯海(ありそうみ)

(金沢:元禄二年七月十五日から二十三日)
卯(う)の花山(はなやま)・くりからが谷をこ(越)えて、金沢は七月中(なか)の五日(いつか)也(なり)。爰(ここ)に大坂(おほざか)よりかよふ商人(あきびと)何処(かしょ)と云(いふ)者有(あり)、それが旅宿(りよしゆく)を倶(とも)にす。一笑(いつせう)と云(いふ)者は、此道(このみち)にすける名のほのぼの聞(きこ)えて、世に知人(しるひと)も侍(はべり)しに、去年(こぞ)の冬、早世(さうせい)したりとて、其(その)兄追善(つゐぜん)を催(もよほ)すに、

塚(つか)も動(うご)け我泣声(わがなくこゑ)は秋の風

ある草庵にいざなはれて
秋(あき)凉(すゞ)し手毎(てごと)にむけや瓜茄子(うりなすび)

途中●(クチヘン+「金」:ぎん)
あかあかと日(ひ)は難面(つれなく)もあき(秋)の風

(小松:元禄二年七月二十四日から二十六日)
小松と云(いふ)所にて
しほらしき名(な)や小松(こまつ)吹(ふく)萩(はぎ)すゝき(薄)

此(この)所、太田(ただ)の神社に詣(まうづ)。実盛(さねもり)が甲(かぶと)、錦(にしき)の切(きれ)あり。住昔(そのかみ)、源氏に属(ぞく)せしとき、義朝(よしとも)公より給(たま)はらせ給(たまふ)とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返(ふきがへ)しまで、菊(きく)から(唐)草の彫(ほ)りもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形(くはがた)打(うつ)たり。実盛(さねもり)討死の後(のち)、木曾義仲(きそよしなか)願状(ぐわんじやう)にそへて、此社(このやしろ)にこめられ侍(はべる)よし、樋口(ひぐち)の次郎が使(つかひ)せし事共(ことども)、まのあたり縁紀(えんぎ)にみ(見)えたり。

むざんやな甲(かぶと)の下(した)のきりぎりす

(那谷寺・山中温泉:元禄二年七月二十七日から八月五日)
山中(やまなか)の温泉(いでゆ)に行(ゆく)ほど、白根(しらね)が嶽(たけ)跡(あと)にみ(見)なしてあゆ(歩)む。左の山際(やまぎは)に観音堂あり。花山(くわざん)の法皇、三十三所の順礼(じゆんれい)とげさせ給(たま)ひて後(のち)、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置(あんち)し給(たま)ひて、那谷(なた)と名付(なづけ)給(たま)ふとや。那智(なち)、谷汲(たにぐみ)の二字をわか(分)ち侍(はべ)りしとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松(こしやう)植(うゑ)ならべて、萱(かや)ぶきの小堂(しやうだう)、岩の上に造りかけて、殊勝(しゆしよう)の土地也(なり)。

石山(いしやま)の石より白し秋の風

温泉(いでゆ)に浴(よく)す。其(その)功(かう)有明(ありあけ)に次(つぐ)と云(いふ)。

山中(やまなか)や菊(きく)はたお(手折)らぬ湯の匂(にほひ)

あるじとする物(もの)は、久米之助(くめのすけ)とて、いまだ小童(せうどう)也(なり)。かれ(彼)が父俳諧(はいかい)を好み、洛(らく)の貞室(ていしつ)、若輩(じやくはい)のむかし、爰(ここ)に来(きた)りし比(ころ)、風雅(ふうが)に辱(はづか)しめられて、洛(らく)に帰(かへり)て貞徳(ていとく)の門人となつて世にし(知)らる。功名(こうめい)の後(のち)、此(この)一村判詞(はんじ)の料(れう)を請(うけ)ずと云(いふ)。今更(いまさら)むかし語(がたり)とはなりぬ。

(曾良との別れ:元禄二年八月五日・六日)
曾良は腹を病(やみ)て、伊勢の国長島(ながしま)と云(いふ)所にゆかりあれば、先立(さきだち)て行(ゆく)に、

行/\(ゆきゆき)てたふ(倒)れ伏(ふす)とも萩の原 曾良

と書置(かきおき)たり。行(ゆく)ものゝ悲しみ、残(のこ)るもののうらみ、隻鳧(せきふ)のわか(別)れて雲(くも)にまよ(迷)ふがごとし。予も又(また)、

今日(けふ)よりや書付(かきつけ)消(け)さん笠(かさ)の露

大聖持(ざいしやうじ)の城外、全昌寺(ぜんしやうじ)といふ寺にとま(泊)る。猶(なほ)加賀の地也(なり)。曾良も前の夜、此(この)寺に泊(とまり)て、

終宵(よもすがら)秋風(あきかぜ)聞(きく)やうら(裏)の山

と残す。一夜(いちや)の隔(へだて)千里に同じ。吾(われ)も秋風を聞(きき)つゝ衆寮(しゆれう)に臥(ふせ)ば、明(あけ)ぼのの空近う読経(どきやう)声すむまゝに、鐘板(しようばん)鳴(なつ)て食堂(じきだう)に入(いる)。けふは越前の国へと、心(こころ)早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙・硯(すずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追(おひ)来(きた)る。折節(おりふし)庭中(ていちゆう)の柳散れば、

庭(には)掃(はき)て出(いで)ばや寺(てら)に散(ちる)柳(やなぎ)

とりあへぬさまして、草鞋(わらぢ)ながら書捨(かきす)つ。

(汐越の松)
越前の境(さかひ)、吉崎(よしざき)の入江(いりえ)を舟に棹(さをさ)して、汐越(しほごし)の松を尋(たづ)ぬ。

終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて
月をたれたる汐越(しほごし)の松 西行

此(この)一首にて、数景(すけい)尽(つき)たり。もし一辨(いちべん)を加(くわふ)るものは、無用(むよう)の指(し)を立(たつ)るがごとし。

(丸岡天龍寺)
丸岡天龍寺の長老(ちやうらう)、古き因(ちなみ)あれば尋(たづ)ぬ。又、金沢(かなざは)の北枝(ほくし)といふもの(者)、かりそめに見送りて此処(このところ)までした(慕)ひ来る。所々(ところどころ)の風景過(すぐ)さず思ひつゞけて、折節(をりふし)あはれなる作意(さくい)など聞(きこ)ゆ。今既(すでに)別(わかれ)に望(のぞ)みて、

物(もの)書(かき)て扇(あふぎ)引(ひき)さく余波(なごり)哉(かな)

(永平寺・福井:元禄二年八月十二日から十四日)
五十丁山(やま)に入(いり)て永平寺を礼(らい)す。道元禅師(だうげんぜんじ)の御寺(みてら)也(なり)。邦機(はうき)千里(せんり)を避(さけ)て、かゝる山陰(やまかげ)に跡をのこし給(たま)ふも、貴(たうと)き故(ゆへ)有(あり)とかや。
福井は三里計(ばかり)なれば、夕飯(ゆふげ)したゝめて出(いづ)るに、たそかれの路(みち)たどたどし。爰(ここ)に等栽(とうさい)と云(いふ)古き隠士(いんじ)有(あり)。いづれの年にか、江戸に来(きた)りて予を尋(たづぬ)。遥(はるか)十(と)とせ余(あま)り也(なり)。いかに老(おひ)さらぼひて有(ある)にや、将(はた)死(しに)けるにやと人に尋(たずね)侍(はべ)れば、いまだ存命(ぞんめい)して、そこそこと教ふ。市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家(こいへ)に夕貌(夕顔:ゆふがほ)へちまのはえかゝりて、鶏頭(けいとう)はゝきゞ(箒木)に戸(と)ぼそを隠(かく)す。さては、此内(このうち)にこそと門(かど)を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(いで)て、「いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の御坊(ごばう)にや。あるじは此(この)あたり何がしと云(いふ)ものの方(かた)に行(ゆき)ぬ。もし用あらば尋(たずね)給(たま)へ」といふ。かれが妻なるべしとし(知)らる。むかし物がたり(物語)にこそ、かゝる風情(ふぜい)は侍(はべ)れと、やがて尋(たづね)あひて、その家に二夜(ふたよ)とま(泊)りて、名月はつるが(敦賀)のみなと(湊)にとたび(旅)立(たつ)。等栽も共に送らんと、裾(すそ)おかしうからげて、路(みち)の枝折(しをり)とうかれ立(たつ)。

(敦賀の津:元禄二年八月十四日・十五日)
漸(やうやう)白根(しらね)が嶽(たけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(たけ)あらはる。あさむづの橋を渡りて、玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂(ほ)に出(いで)にけり。鴬(うぐひす)の関(せき)を過(すぎ)て、湯尾峠(ゆのおたうげ)を超(こゆ)れば、燧が城(ひうちがじやう)・帰山(かへるやま)に初雁(はつかり)を聞(きき)て、十四日の夕ぐれ(暮)つるが(敦賀)の津(つ)に宿(やど)をもとむ。その夜、月殊(ことに)晴(はれ)たり。「あすの夜もかくあるべきにや」といへば、「越路(こしぢ)の習(なら)ひ、猶(なほ)明夜(めいや)の陰晴(いんせい)はかりがたし」と、あるじに酒すゝめられて、けい(気比)の明神(みやうじん)に夜参(やざん)す。仲哀天皇(ちゆうあいてんのう)の御廟(ごべう)なり。社頭(しやとう)神(かむ)さびて、松の木(こ)の間(ま)に月のもり入(いり)たる、おまへの白砂(はくさ)霜(しも)を敷(しけ)るが如し。往昔(そのかみ)遊行(ゆぎやう)二世の上人(しやうにん)、大願發起(だいぐわんほつき)の事ありて、みづから草を刈(かり)、土石(どせき)を荷(にな)ひ、泥濘(でいねい)をかわかせて、参詣往来(さんけいわうらい)の煩(わづらひ)なし。古例(これい)今に絶えず。神前に真砂(まさご)を荷(にな)ひ給(たま)ふ。これを「遊行の砂持(すなもち)と申侍(まうしはべ)る」と、亭主(ていしゆ)のかたりける。

月清し遊行(ゆぎやう)のもてる砂の上

十五日、亭主の詞(ことば)にたがはず雨降(ふる)。

名月や北国日和(ほくこくびより)定(さだめ)なき

(種の浜:元禄二年八月十六日)
十六日、空(そら)霽(はれ)たれば、ますほの小貝(こがひ)ひろはんと、種(いろ)の浜(はま)に舟を走(はしら)す。海上(かいしやう)七里あり。天屋(てんや)何某(なにがし)と云(いふ)もの、破籠(わりご)小竹筒(ささへ)などこまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりの(乗)せて、追風時(おひかぜどき)の間に吹着(ふきつけ)ぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家(こいへ)にて、侘(わび)しき法花寺(ほつけでら)あり。爰(ここ)に茶を飲(のみ)、酒をあたゝめて、夕ぐれ(暮)のさび(淋)しさ、感(かん)に堪(たへ)たり。

寂しさや須磨(すま)にか(勝)ちたる浜の秋

波の間や小貝(こがひ)にまじる萩の塵(ちり)

其日(そのひ)のあらまし、等栽(とうさい)に筆をとらせて寺に残す。

(大垣の庄:元禄二年八月二十一日から九月六日)
露通(ろてう)も此(この)みなと(湊)まで出(いで)むかひて、みの(美濃)の国へと伴(ともな)ふ。駒(こま)にたすけられて、大垣(おほがき)の庄(しやう)に入(いれ)ば、曾良も伊勢より来(きた)り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入(いり)集(あつま)る。前川子(ぜんせんし)、荊口(けいこう)父子(ふし)、其外(そのほか)した(親)しき人々日夜とぶらひて、蘇生(そせい)のもの(者)にあふがごとく、且(かつ)悦(よろこ)び、且(かつ)いたはる。旅の物うさもいまだや(止)まざるに、長月(ながつき)六日になれば、伊勢(いせ)の遷宮(せんぐう)おが(拝)まんと又舟にのりて、

蛤(はまぐり)のふた見(み)にわかれ行(ゆく)秋ぞ

おくのほそ道wikipedia

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