文七元結 / 芝浜 落語二席

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古今亭志ん朝 文七元結 (音源のみ)


三遊亭圓生(六代目) 文七元結 (音源のみ)
※最後の三遊亭圓生(六代目)本人による解説も是非お聞きください。

「文七元結」にある「元結」(江戸では:もっとい)は日本髪の髻を結ぶもので、江戸時代に考案された元結紙でこよりを作り水糊(みずのり)を塗ったものを「文七元結」といい、この落語はその由来噺となっています。三遊亭圓朝の作とされていますが、もう少し先の時代からあった噺をで歌舞伎「人情噺文七元結」にもなった人情噺の傑作です。歌舞伎では、十八代目 中村 勘三郎が長兵衛を見事に演じていました。
博打にのめり込んで、にっちもさっちも行かなくなった長兵衛が自分の娘お久を吉原遊郭の大店「佐野槌」(さのづち)に預けてまで借りたお金を、吾妻橋で出会った見ず知らずの文七に、迷いに迷った挙句、財布ごと叩きつける噺の山場は、自分たち家族が不幸になっても救わなければならない、お金に代え難い命の重さを描いた名場面です。翌日、店の主人と文七が長兵衛にお礼として持参した酒屋の「二升の切手」は今の商品券です。他にも米切手などもあったので、江戸時代には既に信用による経済システムが発達していたことが分ります。
三遊亭圓生(六代目)の文七元結は、三遊派が時代を経て培った噺ですが、志ん朝は、それを人情の機微に至るまで完成したと言えると思います。

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古今亭志ん朝 芝浜


桂三木助 「芝浜」

明治の大名人、三遊亭圓朝が「酔っぱらい、芝浜、革財布」の三つの題をまとめた三題噺の名作。芝浜は今の東京本芝公園辺り、昔「雑魚場」という漁師たちの河岸(市場)があった所で、昭和42年に埋め立てられ今の本芝公園となっています。江戸っ子はここに上げられた新鮮な魚介類を「芝肴」と呼んで好んでいました。江戸時代には芝の河岸はその日に獲った魚介類を商っていたので市は夕刻にあったようですが、圓朝の幕末、明治の頃は早朝になったのかもしれません。
この噺は桂三木助(3代目)が得意とし、「芝浜の三木助」とも呼ばれました。三遊派と柳派では主人公の名前や拾った金額などに違いがありますが、桂三木助はこれを八十二両としてリアリティを持たせた演出しています。芝浜から見る日の出は千葉の富津から君津辺りの山際から上がります。三木助は海の広さが広くて、この浜から向う岸が見えたことがないと言っていますが。空気が澄んだ日には建物も判別できます。それはともかく芝の浜の夜明けの描写や前半と後半の亭主よ女房のやりとりでは、写実的で自然な描写の中に人情の機微を語ったところが名人芸と言われた所以です。

古今亭志ん朝は、桂三木助(3代目)の芝浜で演じた風景描写を帰って来てからの話に変えています。そのためか、細かいことですが、熊さんの移動がない分、落語の演出としての空間的な広がりが希薄になったこと、汚くて、重い革の財布の中身を始めには見なかったとこと、財布のお金がぴったり五十両というのは、桂三木助(3代目)と比べると、ややリリアティに欠けていたことが気になりました。

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「しわす」の語源については、(1)1年の終わりで、「なし終える」意味の「為(し)果(はつ)」、(2)「年果つ(としはつ)」→「しはつ」、などの説がある。
『語源大辞典』(東京堂)など>著者 編集者:堀井令以知. 東京堂出版, 1988
堀井 令以知(ほりい れいいち、1925年11月5日 – 2013年3月10日[1])は、日本語学、言語学者

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