アンディ・ウォーホールの絵1

アンディ・ウォーホールの絵2

ポップアートは、マルセル・デュシャンの「レディメイド」の考え方を進めたものです。デュシャンの「レディメイド」の考え方は、日常生活の既製品に「作ることと見ることの同次元的な緊張関係」をもたらすというものです。簡単に言えば、「作ること」と「見ること」のどちらか一方に偏った見方では、日常生活の既製品は、私たちが日頃認識している生活の道具以上の物にはなりえないが、そこに緊張した関係を持たせれば、それ以上の観点が生まれるというものです。デュシャンはその実践として、男性用便器に「泉」という題名を付けて美術展に出品しました。そして出品を拒否されました。デュシャンの言葉です。「…便器を自分の手で作ったかどうかはどうでもいいことだ。彼はそれを選んだのである。彼は生活のありふれた品物をとりあげ、新しいタイトルと観点によってその実用的意味が消失するように置いたのである。そして、その物体についての新しい思考をつくりだしたのだ。…」
この「新しいタイトルと観点によって」物を見る者に「新しい思考」がもたらされる。そして、既製品であっても、そこに「美」が存在することにも気付くことができます。この考えは、日本人にとっては比較的に分りやすい考え方です。たとえば、茶道の千利休は漁夫の使っていた魚籠を花入れにして、そこに「美」があることを世に知らしました。
ポップアートでは、ジャスパー・ジョーンズなどが、既成品を模造することで美術作品を作りましたが、アンディ・ウォーホールは既製品のイメージを絵画として定着する方法を選びました。それが上のマリリン・モンローとキャンベルスープの作品です。ここでは、マリリン・モンローとキャンベルスープのイメージをそのまま使うのではなく、色彩と形状で対象を記号化しています。そして、そこに「美」を見出す観点を見る者に与えています。しかし、このポップアートの方法は、デュシャンや千利休のように、既製品に手を加えないというほど純粋な理論ではなかったため、ポップアートの作品は多くの類似物が作られた商業美術の中に埋没してゆきました。
アンディ・ウォーホールを語る美術評論家の多くが、この既製品による記号性と、商業美術出身のウォーホールのデザイン性を強調しました。これを受けて、ウォーホール自身も無機的、機械的なプロセスにより作品を作りたいと語りました。そして美術評論家たちは、自分たちの考えていたとおり、「ポップアートは既製品への新たな観点を認識するものだ。」と定義して、ウォーホールもこの範疇に入る作家であると思いました。しかし、これはポップアートというものを定義付けたいという美術評論家の視点で、デュシャンの言った「作ることと見ることの同次元的な緊張関係」を回避した考え方です。実はウォーホールは、ポップアートがデュシャンの言った「レディメイド」理論の実践となり得ないことに、早くから気付いていたのだと思います。そして、描く対象のイメージを使用するという、従来の自分の技法を使いながら、色彩とドローイングにより自分の個性を表現しました。それが上2番目の作品例です。そう考えるとウォーホールは多分に古典的な作家だと言えます。後期のウォーホールの技法は、描く対象を色彩と描線で強調しました。そこでは初期の記号性は失われましたが、シマウマはシマウマの、グレース・ケリーはグレース・ケリーの、対象の中の美を描き出しています。シルクスクリーン印刷のずれやはみ出た描線を、彼のファクトリーで機械になりきれなかったウォーホールの現実的な限界だと、的外れなことを書いた評論もありましたが、印刷のずれやはみ出た描線が美しいことが分からないのでしょうか?ウォーホールの優れたドローイングの才能と色彩画家の天賦の才能を評価する評論が少ないことにも驚きます。これが後世になってウォーホールを再評価する彼の本質だと私は思います。
ウォーホールの言葉です。「アンディ・ウォーホルについてすべてを知りたいなら、僕の絵と映画、僕の表面を見るだけでいい。そこに僕がいる。裏には何もない」

アンディ・ウォーホルWikipadia

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