昭和江戸落語名人選です。
初めて聴く人と、より面白く聴きたい人のために少し雑学を書いておきます。

桂三木助 「芝浜」

明治の大名人、三遊亭圓朝が「酔っぱらい、芝浜、革財布」の三つの題をまとめた三題噺の名作。芝浜は今の東京本芝公園辺り、昔「雑魚場」という漁師たちの河岸(市場)があった所で、昭和42年に埋め立てられ今の本芝公園となっています。江戸っ子はここに上げられた新鮮な魚介類を「芝肴」と呼んで好んでいました。江戸時代には芝の河岸はその日に獲った魚介類を商っていたので市は夕刻にあったようですが、圓朝の幕末、明治の頃は早朝になったのかもしれません。
この噺は桂三木助(3代目)が得意とし、「芝浜の三木助」とも呼ばれました。三遊派と柳派では主人公の名前や拾った金額などに違いがありますが、桂三木助はこれを八十二両としてリアリティを持たせた演出しています。芝浜から見る日の出は千葉の富津から君津辺りの山際から上がります。三木助は海の広さが広くて、この浜から向う岸が見えたことがないと言っていますが。空気が澄んだ日には建物も判別できます。それはともかく芝の浜の夜明けの描写や前半と後半の亭主よ女房のやりとりでは、写実的で自然な描写の中に人情の機微を語ったところが名人芸と言われた所以です。

三代目 三遊亭金馬 「藪入り」

「藪入り」は商家に奉公していた者が年始とお盆に生家に帰れる休暇。噺にある通り、年少の子供が丁稚奉公に出て、寄宿生活しながら商売を身に付けることは江戸時代から戦前までごく一般的な就業形態でした。噺の中にネズミの懸賞ということが出てきますが、これは昔、日本政府が伝染病予防を奨励して、駆除したネズミの数によって懸賞金を出した制度です。「白でも黒でもネズミを獲る猫が良い猫」と言った中国の鄧小平の言葉もこうした事柄から生まれたものです。
三遊亭金馬 (3代目)は「出っ歯の金馬」の愛称で人気があった人ですが、大変な勉強家、博識家であったことでも知られています。「藪入り」の噺は子供の薮入りを待ちきれない江戸っ子の父親の熊さんの親心と、三年目経って親に会えた子供との会話にある人情の機微が細やかに表現された「笑えて泣ける」金馬の人情噺の傑作です。「藪入り」ということが庶民に身近であった同時代の落語家ならではの味があります。
大人になると忘れがちですが、親は離れて暮らしていてもこの位子供を想っているもの、偉い親でもそうでなくても、賢くても愚かでも、親は親、自分を一番愛して育ててくれた人なら敬わなくてはいけません。

五代目 古今亭志ん生 「黄金餅」

古今亭志ん生(5代目)は金原亭馬生(10代目)、古今亭志ん朝(3代目)の父親です。若い頃は生真面目で少し線の細い芸風であったのですが、戦後に中国から戻ってきた頃から晩年にかけて破天荒な芸風に変化し、終戦後のラジオ放送、演芸場の隆盛による落語ブームの中で、江戸落語の威勢の良さと現代的なギャグ性が受けて人気を得ました。但しこの大器晩成の芸風は志ん生の人柄や人間性に拠るところが多く、一代のみのものです。
「黄金餅」の噺は江戸時代に人気があった同名のお餅に関する由来噺で、この種の噺には「幾代餅」などもあります。「黄金餅」の噺がそれらと違うのは内容が極めて陰惨なことです。「らくだ」の噺でも死体に「かんかんのう」(唐人踊り、看々踊:かんかんおどり)を躍らせる場面もありますので、人間の死体に接することが多かった江戸時代には死体に対する恐怖感は少なかったのでしょう。噺に出てくる「麻布絶口釜無村木蓮寺」は架空の名前です。麻布には曹渓寺の開祖に因んだ絶江坂や、明治の頃には細民街「釜無横丁」があったので、時代は違いますが、江戸時代の麻布は相当な田舎だったことを現しています。麻布狸穴町(あざぶまみあなちょう:現在の麻布二丁目)の地名も実際に狸が住んでいたことから付けられたものです。また木蓮寺は「朴念仁」のシャレといったところでしょうか。それはともかく、この噺を屈託なく明るく演じきる勢い、観客に陰惨さを与えないところが志ん生の十八番たるところです。

八代目 桂文楽 「明烏」

「明烏」は「烏、カアで世が明ける」の通り夜明け・早朝のことをいう、主に遊郭で使われた言葉です。高杉晋作の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」も新内の「明烏夢泡雪」をもじったものです。「明烏夢泡雪」は明和六年(1769)に公儀の役人の子息、伊藤伊之助と吉原の花魁三芳野の心中事件を題材にしたものです。今も巣鴨の慧眼寺には伊之助と三芳野を祀った比翼塚があります。「明烏」の噺はこの新内や人情噺「明烏後正夢」の発端を落語としてパロディ化した廓噺の代表作です。明治の頃はちょっとキワドイ描写を含めた艶笑落語に近いものでした。
八代目並河の文楽、桂文楽(8代目)は落語にリアリズムを求めた人で、「明烏」の噺から艶笑的な部分を排除して、若旦那時次郎の純情さを際立たせることでストーリーを整理し、またリアリティある徹底した演出を加えることで、品位ある色気(艶)の廓噺として完成しました。「文楽の甘納豆」も見所のひとつです。

六代目 三遊亭圓生「死神」

「死神」の噺は三遊亭圓朝がグリム兄弟の童話「死神の名付け」(Der Gevatter Tod)、またはイタリアの歌劇「クリスピーノと死神」(Crispino e la comare)から落語に翻案したものと言われています。グリム童話が日本で翻訳されたのは、ドイツでの初版から75年後の明治20年(1878)桐南居士(とうなんこじ=菅了法(すが・りょうほう))の「西洋古事神仙叢話」が最初ですが、「西洋古事神仙叢話」に収録された11編の中には「死神の名付け」はないので、圓朝はこれ以前にイギリス経由の英語翻訳書からか、書物に拠らない伝聞から翻案したのではないかと思います。人間の寿命は死神のろうそくの長さというのは、江戸時代の人たちには無かった観念ですので、日本の話にするには少し無理があるようで、西洋的な怪奇短編小説風の異色の近代落語ですが、ここにも三遊亭圓朝の江戸落語の革新的な姿勢が伺い知れます。
三遊亭圓生(6代目)は圓朝落語の正当な継承者として、三遊亭派に伝わる噺を整理し、記録に留めることで、その保存と完成に尽くした人です。ライフワークとなった「圓生百席」は江戸落語のスタンダード、貴重な文化遺産として後世の落語家にに受け継がれると思います。
圓生は4歳のときから子供義太夫として舞台に出ていたこともあり、その歌舞音曲の芸達者振りを自らの演目で発揮しました。落語の中で見せる(聴かせる)芸も本物、これから先には多才な圓生の落語を演じられる人は出てこないと思います。
「死神」の次第に怖さを増して行き、最後でピークを向える鬼気迫る演出と語りは昭和の名人にふさわしいものだと思います。

八代目 林家正蔵(林家彦六)「中村仲蔵」

「中村仲蔵」は江戸時代の下積みから座頭に出世した、天明期を代表する歌舞伎役者「初代中村仲蔵」(1736-1790)の芸談を元にした噺です。初代中村仲蔵はこの噺にあるように、「仮名手本忠臣蔵」五段目の斧定九郎を「黒羽二重の紋付に大小(刀)の落とし差し、月代(さかやき)を伸ばし、高く尻はしょり、蛇の目の半開き」と粋な姿の悪党振りの型を生み出したひとで、斬新な演出でたいへん人気があった人です。この演出は昭和61年の通し狂言で斧定九郎を演じた故・尾上辰之助の形(恰好)の良さにも継承されていました。
林家正蔵(8代目)(林家彦六)は地味な芸風から、戦後の落語人気でも派手な落語家が人気を集める中で長く下積みであった人です。しかしその芸の蓄積が晩年に「真景累ヶ淵」(三遊亭圓朝作。真景=おばけを見るのは神経の作用という近代的な考えをもじった洒落)などの怪談噺や人情噺、笑いよりもストーリー・テラーとしての名人芸を残しました。

国芳:斧定九郎国芳:斧定九郎

十代目 金原亭馬生 「笠碁」

金原亭馬生(10代目)の父は5代目古今亭志ん生、弟は3代目古今亭志ん朝、娘の女優、池波志乃さんはやはり面影が似ています。若い頃には初代古今亭志ん朝を名乗り、真打昇進時に古今亭志ん橋を襲名後、1949年の十代目金原亭馬生を襲名しました。父・志ん生とは違う堅実で安定した芸風、間の取り方で聴かせる落語、緩急・強弱のある話術にある笑いと人情の機微に絶妙な味わいがありました。
「笠碁」は碁のヘボ相手の商家の旦那どうしの仲違いと仲直りの噺です。噺に出てくる「囲碁」は武士が多く住んでいた江戸の町では将棋とともに広く親しまれていました。町人文化が盛んになるとともに碁会所もでき、庶民の社交場になりました。現在でも「ヒカルの碁」の人気によって駅の近くなどで碁会所をよく目にします。今では想像できませんが、大正時代には男性が一人で行って女性が相手をする風俗業の碁会所が数多くあったそうです。
チェスも同じですが、囲碁や将棋は実力が同じ位の相手のほうが楽しいゲームです。下手は下手なりということでしょうか。「笠碁」の二人の旦那はそんな友人どうしです。
蓑と笠は昔から伝わる庶民の雨具です。江戸時代の番傘の値段は現在の約2万円位、値段が高かったので、裕福な商家でも何本も備えて置くものではありませんでした。蓑と笠はどうしても雨や雪の日に外出しなければならない庶民や農民などの雨具、それを商家の旦那が付けている姿の滑稽さもあるのですが、噺のオチとともに、蓑と笠が一般的でない現在は少し分り難いものになっています。
この噺は、意地の張り合い、独り言や家人への八つ当たりでの相手の悪口の中にも界間見える友情が微笑ましいのですが、大きなストーリー展開が無いだけ観客の興味を惹き付ける話術の巧みさが要求されます。それを見事に演じてみせたのが十代目金原亭馬生です。

古今亭志ん朝 「井戸の茶碗」「文七元結」

三遊亭圓朝が革新した江戸落語のひとつの完成形となったのが三代目古今亭志ん朝の落語です。簡単に言えば、下ネタや野卑で下品な笑いを廃し、噺のストーリー展開や演出を洗練し、それを表現する個人の芸(話術と所作)の鍛錬によって完成した話芸です。そこには志ん生の明るさと金馬、三木助、文楽、圓生、彦六などの人情噺にある堅実さを兼ね備えた、端的には父・志ん生と兄・馬生の良い面を併せ持った品格を備えていました。
その芸の到達点を二席。

「井戸の茶碗」は「細川の茶碗屋敷」という講談を元にした噺です。「井戸の茶碗」とは李朝時代の朝鮮で焼かれた雑器ですが、桃山時代に茶の湯の茶碗として「一井戸二楽三唐津」といわれ珍重されたものです。「井戸」の名は文禄慶長の役で井戸若狭守が持ち帰ったからなど諸説があります。細川家では最も珍重された大井戸のうちのひとつ「細川」を有していました。講談の「細川の茶碗屋敷」では、この茶碗を将軍家に献上して、その礼に広大な屋敷を賜り、江戸の人々は「細川の茶碗屋敷」と呼んだとなっています。
江戸の町は徹底したリサイクルが行われた所でした。例えば飲食店の割り箸は客が使った後良く洗ってから表面を削り、「二八蕎麦」などの屋台で再利用し、その次も同様にしてから表面を塗って利用されました。
ところで、正直者の清兵衛の商売「クズ屋」は紙屑買いという商売です。江戸は人口も多く、文化の中心地として出版も盛んであったことから、紙の最大消費地でした。この紙の需要に応えるため、古紙や紙屑まであらゆる紙を買い上げて回収したのが紙屑買いです。回収された紙は問屋を通して、漉きかえす漉屋で再生されました。この漉屋は浅草周辺に多かったことから、この再生紙は「浅草紙」と言われました。清兵衛が仏像の引取りを断ったのは、骨董品や古物、金属類は他の商売人がいたからです。
噺の始めに出てくる「(白金の)清正公様」は正式には「清正公太神儀」で、戦国の武将、加藤清正の神号です。白金台の最正山覚林寺が清正の肖像を有し、開運の神様として祀って人気があったので、この名で呼ばれました。
「井戸の茶碗」の噺の登場人物たちは皆欲の無い正直な善人ばかり、その善人たちが善人であるが故に幸を得るストーリーに清清しさがあります。そして、そこに生まれる笑いは人を嘲ったり馬鹿にするようなものではなく、もっとずっと上質の微笑ましい笑いです。
井戸茶碗:細川井戸茶碗:細川

三代目 古今亭志ん朝 「文七元結」

「文七元結」にある「元結」(江戸では:もっとい)は日本髪の髻を結ぶもので、江戸時代に考案された元結紙でこよりを作り水糊(みずのり)を塗ったものを「文七元結」といい、この落語はその由来噺となっています。これも三遊亭圓朝の作で歌舞伎「人情噺文七元結」にもなった人情噺の傑作です。歌舞伎では現・中村勘三郎が長兵衛を見事に演じています。博打にのめり込んで、にっちもさっちも行かなくなった長兵衛が自分の娘お久を吉原遊郭の大店「佐野槌」に預けてまで借りたお金を、吾妻橋で出会った見ず知らずの文七に、迷いに迷った挙句、財布ごと叩きつける噺の山場は、自分たち家族が不幸になっても救わなければならない、お金に代え難い命の重さを描いた名場面です。翌日、店の主人と文七が長兵衛にお礼として持参した酒屋の「二升の切手」は今の商品券です。他にも米切手などもあったので、江戸時代には既に信用による経済システムが発達していたことが分ります。
古今亭志ん朝の1997年の落語研究会での語りは、どの場面ひとつとっても名人芸の名に恥じぬ最高の名演でした。

桂三木助 (3代目):Wikipedia
三遊亭金馬 (3代目):Wikipedia
古今亭志ん生 (5代目):Wikipedia
桂文楽 (8代目):Wikipedia
三遊亭圓生 (6代目):Wikipedia
林家彦六:Wikipedia
金原亭馬生 (10代目):Wikipedia
古今亭志ん朝 (3代目):Wikipedia

Posted in ART

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です